ドスコイ墓場

オタクの話やオタクじゃない話や

今週あたり(オリバーな犬・ココス・軽井沢とサイゼ・ふめつのこころ)

ツイッターのタイムラインに流れる、フォロワーやバズツイートによる様々なものの評価を見てそれを確かめるかのようにそのものを享受している現状がキツくなってきたのでツイッターの見方を見直して(不自然な日本語)適当にやりつつ自分のラインを程よく取り戻していこうということになり、その延長線上にこの日記的な文章があります。

 

  • オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ

NHK金曜ドラマ「オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ」を見ている。

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ちょっと前に見ていた横溝正史シリーズとQ10の影響で池松壮亮のことがかなり好きになっていたため見始めたところ、最初は「オダギリジョーの良くないところ」みたいな気持ちの方が大きかったが2話目にして全てが愛しくてたまらなくなってしまった。大殺界にいる(らしい)池松壮亮演じる主人公が所属する警察犬係のメンツがあまりに可愛い。すきあらば前髪を切ってしまう麻生久美子、ニコニコスマイルに溢れた、「Good Boy」の発音(発声?)が良い本田翼、そもそも愛しき岡山天音、ドン國村隼、が揃う警察犬係のことを考え続けて三千里になってしまう

EGO-WRAPPINが担当する音楽は文句なしに良いのだがもはやEGO-WRAPPINがいなくなったら誰がこんな音楽をやってくれるんだろうという未だきていない未来を恐れる段階にある。しかし日本の音楽業界がどうも残念なだけで作り手自体は確実に時代に沿った形で存在し続けるだろうと信じてもいる。関係ないが私は小学生の頃、松本人志が死んだら日本のお笑い界はどうなるのだろうと学校帰りに考えながら不安になっていた。その帰り道すずめが死んでいてびっくりしたのだが、頑張って埋葬しようと触れたら発泡スチロールくらい軽くて恐ろしかった。大きい葉っぱをかぶせて足早に逃げた。

 

  • ココス

友人(私には友達が二人しかいない、そのうちの一人)に誘われ「空白」を見に行った。

 


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よく知らないまま見に言ったのであまり期待していなかった(しようがない)のだがその割には良かった。正しさや善の揺らぎ、曖昧さと、人間のとりとめのない側面が細かく描けてて良いなと思いながら見ていた。予告や煽りのやり方は完全にミスっていると思う。というようなことを伝えたら友人は「全然良くなかった…」と述べた。「エーーッ」と反射的には言ったがおもしろいなと思った。対して映画ファンでないので機会そのものがなかっただけかもしれないが友人と一つの映画の好き嫌いが分かれるという経験をしたことがなかった。しかし感想を口どもるのでなぜかと聞くと自分は好きじゃないということをはっきり相手にぶつけてはいけないと思っていたらしい。わかるようなわからないような、と思いながら二人でココスに入り、ハンバーグを食べ、友人に「私を信じてよ」と言った。TRY ME


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この友人は私が外食先で白飯を残しがちなところを毎回「なんで少なめでお願いしますって頼まないの」と詰めてくれる。ココスは安くてハンバーグが美味いね、と調子にのってパフェを頼んだが全然美味しくなかった。あと、記憶の中の抹茶オレの味とこの時飲んだ抹茶オレの味が全く一致しなかった。ココスのドリンクバーの抹茶オレの味って不味くなりましたか?ココサー(ココスのオタク)の方いらしたらコメントください。

 

  • 軽井沢とサイゼ

友人(私には友達が二人しかいない、そのうちのもう一人)と車で軽井沢、と言ってもちょっとしか寄れないので旧軽銀座にのみ行った。二人とも事前情報なしに行ったところあたりいっぺん犬を連れた夫婦・カップル・夫婦。立ち寄るトイレがどこも有料トイレ。ちょっと昼ごはんでもどこかで食べたいね、などと話していたのだが「所得の差に落ち込む」という理由で足早に軽井沢から退場した。友人は「二度と来ない」と言っていたが概ね同意している。それまでの行路は快晴だったのだが軽井沢のあたりに踏み込んだ途端気分の悪い曇り空になっていたのも暗示だったのかもしれない。我々は軽井沢を脱出してサイゼリヤに駆け込んだ。私はドリアとヤンコチ(メニュー表ではヤンコチなどと書いていないが私の中ではヤンコチで登録されている、羊の肉の串)を、友人は大盛りパスタにピザを平らげた。「結局、サイゼリヤが一番『飯を食っている』という感じがするよな」と言うと「わからないでもない」と言っていた。全部わかってくれよ

 

行きの車で友人が「痛い描写のある映画とか見ると存在しないタマがヒュンとする」という話を始めた時私はいたく感動した、つい数日前に私も「ないキンタマがヒュンってなる」ことについて考えていたからだ。

「お前もないキンタマがヒュンってなる!?」と大声で叫んだが人生でこの一度だけだろうと思われる。

 

  • ふめつのこころ

ドラマ「電影少女 VIDEO GIRL AI 2018」を見た。

 

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色々雑だなー下手だなーと思いながら最後まで勢いよく突っ走ったのは主題歌であるtofubeats「ふめつのこころ」が魂のアンセムだからだと思う。人を癒すためにビデオデッキの中から現れる不思議な存在・ビデオガールである天野あい(アイ)と、アイを「再生」した弄内翔の3ヶ月の物語は人と人ならざるものの「恋愛」を軸に描かれている。「ふめつのこころ」はアイの心情に寄り添った歌詞を携えた歌なんだなあと思いながら視聴していたのだが、最終回を見終えて「ふめつのこころ」の意味が大きく変わった。「愛はきっとふめつのこころ」と繰り返すこの歌は、二人の恋心を確かめるためにあるのではなく、「これからどんなことが起こっても、あなたがいた記憶が私を支えてくれる」ということを教えてくれている気がしてならない。誰かが物理的にそばにいることだけが人を救うのではなく、誰か…それは強い結びつきでも、そうでなくても…がいつか「いた記憶」が、そのあと続く人生にいくらも影響を及ぼし得る、そして救い得るのだと思う。その人はいなくても、思い出せなくなっても、その記憶は不滅なのだろうし、それが多くの場合に愛と呼ばれるのかもしれない。My Little Loverが「記憶の中でずっと二人は生きていける」と歌っていたのは本当だったんだなと思っていた。ふめつのこころはlove love loveなのだから…

 

私も世の中の人もあらゆることに晒され続けて死にたくなる気持ちを大小抱いてることと思うが、誰かがいた記憶/何かがあった記憶が胸の底にたゆたうことで生かしてくれるよう、私に対しても世の中の人に対しても願う。

友人二人のことを思い出している。

 

 


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