ドスコイ墓場

オタクの話やオタクじゃない話や

美しく眩しい、FIESTAという「体験」

時が来たわ 長い待ち時間を終えて…

 


IZ*ONE (아이즈원) - 'FIESTA' MV

 

美しく神々しいという言葉を与えることしかできないようなIZ*ONE渾身のカムバック作「FIESTA」が、混乱の時期(…)を経てようやく投下されました。もう、YouTubeが擦り切れて燃えるほどなんども繰り返し再生しています。

 

 

 

 

とにかく彼女たちの世界に圧倒される、その一言に尽きるFIESTAのMV。莫大な資金がかけられていることがどう見ても明らかですし、どのカットを切り取っても意味深長です。鈴木妄想さんがまとめてくださってるこちらの内容だけでももう十分お腹いっぱいですが、(ひとみのシーンのカタコンベという指摘は興奮した!)

nanjamon2.hatenadiary.jp

 

これ以上にももっともっとあらゆる要素が散りばめられていて、意図的であるにしろないにしろ、情報量がとにかく多いです。それはもちろん映しだされるものものもそうですし、幾度も画面比率が変わるところなどもどこか意味深に感じられてしまいます。この情報の洪水(決して煩雑ではない)が、FIESTAのMVを見た時の「圧倒される」感覚の根源なのかなとも思います。

 

 

 

MVを見るうちでおそらく多くの人が気にかかったことが、ワシリ・カンディンスキー抽象絵画作品「コンポジションVII」があからさまに提示されることだと思います。

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 主題は「最後の審判、終末と復活」であると言われているそう。

artmatome.com

結局どういう意図なんだ…?と気になりますが、この作品あまりにも多義的で、というのもカンディンスキーの理念・思想や、作品が生まれるまでの経緯、抽象絵画そのものの技法(技法にたどり着くまでの経緯)、コンポジションVII自体が提示する主題など、この一枚での情報量があまりにも多く、MVのためにどれかを抽出して解釈するという行為が憚られるんですよね。もっぱら抽象絵画ならば慎重になりたい(と個人的には思う)。

 

ただ多義的であるからこそ、MVに登場する様々なモチーフと緩やかに結びつく存在なのではないかと思います。

 

 

 

 

 

FIESTAに関して、「月を中心に惑星が回っているシーンを見てフェミニズムの文脈を感じた」という旨のツイートを見かけました。

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女という性はしばしば月を象徴として捉えられますが、これが含まれているのであればサビの「太陽を飲み込んで 永遠に熱さには負けないわ」という歌詞はすごく示唆的であるように感じられます。

 

そのように見れば(クィア・リーディング的にというか。)、冒頭のチェウォンとユジン2人きりのモーメントにもまた違った視点を授けることができますし、

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そしてこれは深読みしすぎではと自覚はしているのですが、ユジンが持ち上げたドレスの裾にへウォンが投影されているのも、母体の示唆のようにも思えます。

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先述した月のモチーフ、そのゴンドラに乗ってるのは件のへウォンとミンジュのみで、

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衣装もへウォンとミンジュで全く同じデザインの服を着用していて、違うのはトップスの紅白の違いだけ。

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授かった子の象徴がミンジュとへウォンであって、紅白が何か二人の属性の差を意味してるんじゃないか…(紅白は日本で言えば経血と精液の色→女・男を表すと受け取ることもできるのでそういう風な読み込みもできないことはない)とか、様々に解釈ができる面白いところだなと思います。

 

MV中に何度も出てくるウサギは象徴として本当に多様な意味を持っていて、

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わかりやすいところで言えば月の象徴でもあって、これはすぐにゴンドラや照明に使われた月とイメージが繋がりますし、またウサギはイースター…復活祭の卵を運んでくる存在でもあります。

一度死んだキリストが「復活」したことを記念する祭(祭…)であって、このように見ると冒頭にも記したコンポジションVIIともテーマが結びついてきます。

 

 

オタクのエンジンがかかる豪華なMV…。

 

 

 

個人的に好きなのは、度々差し込まれる、髪を結わえていたリボンを解くカット。

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解かれたリボンは私には何かからの解放のように感じられて、気高い彼女たちのある種反骨精神のような一面が見えてくるようでとても好きです。

 

そもそもリボンがたくさん出てくる。

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(余談ですがちょうど金井美恵子の「兎」という短編を読んでいたのですが、「首には復活祭の兎のように大きな薔薇色のリボンを結びました」という文章が出てきた瞬間に全てのイメージがウォニョンにさし変えられました)

 

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自分を縛っていたものを解いて自在に操る、なんてすごく美しいと思いませんか。

 

他にもウォニョンのシーンをはじめ執拗に現れる「サークル」の示唆であるとか、ウンビはなんで天使の格好で踊り狂ってたのかとか(ほんとになんで?)(しかも天使の羽根は最後チェウォンに移っている)、たくさん魅惑的なエッセンスが盛り込まれている、見応えのあるMVでした。

 

 

ここまでなんだか色々書き連ねてきましたが、私はただこの12人がこれほどまでの舞台で色鮮やかに輝いていたことに胸を強く打たれました。

IZ*ONEが始まる、その時点で既に多くの物語を背負うことからは逃れられなかった彼女たちが、そんなことも忘れさせるような圧倒的なエンターテイメントを提供してくれたことがどれほど嬉しかったでしょうか。

 

 

私たちの個性というものはただの色で、優劣は無い、あなたの色が好き、そんな言い回しを最近、どこでとも思い出せないけれど何度も見かけていて、なぜか記憶に残っています。最初から最後までカラフルに作り上げられたFIESTAに、そんななんてことないような要素でさえも受け入れられたような気がして、私はまた嬉しくなるのでした。

 

 

 

 

そしてFIESTAの歌詞は、驚くほど華やかで眩しいです。

 

ついに時が来たわ 長い待ち時間を終えて

 

彼女たちにとってはあまりにもドラマティックすぎるフレーズから入ります。 彼女たちを取り巻いていた騒動を意識せずにはいられない歌詞ですが、製作時期的には全くその意図は生まれるはずもなく…(もちろん実態はどうだったのかなどは一生わかりませんが。)

 

待ち望んだ日を喜ばしく迎える姿が目に浮かぶキラキラした歌詞。


【IZ*ONE (아이즈원-アイズワン)】FIESTA [+掛け声(日本語字幕)] 〈かなるび/歌詞/日本語訳〉

 

「私の全ての瞬間が美しく眩しい」、これほどの言葉を伝えられて泣かずにいられるでしょうか。彼女たちが提示する祝祭のイメージは決しておとぎ話では終わらず、私たちの生活と人生に確かな光を差そうとする。FIESTAにおける、自分が自分のために開く祝祭、それは何も現実離れしたきらびやかなパーティーだけの話ではなくて、日々の中でわずかにでも起こる心境の変化、新しくなる気持ちから、新しい自分を見つける時のことを指しているような気がします。

 

これまでのタイトル曲、ラビアンローズとビオレッタの歌詞を追ってみても、


【日本語字幕/かなるび/歌詞】ラヴィアンローズ(라비앙로즈/La Vie en Rose)-IZ*ONE(アイズワン)

 


【日本語字幕/かなるび/歌詞】Violeta(비올레타)-IZ*ONE(アイズワン)

 

 一人の女性が、自分の中の新しい自分、夢に描いてきた自分を見つけ、輝くまでの道筋を書き連ねているようにも感じられます。

 

楽曲(歌詞もサウンドも)、MVで彼女たちの気高い美しさ、そこにある強い芯を見せ、それでいて彼女たちは確実に私たちの方を向いている。

 

 

全て見終わった瞬間に私に残った感情は、「ただ、祝福されたい」ということ。何をしようとも、はたまたしなくとも、ここにいるというだけで自らを好きでいたいし、誰しもに祝福されたい。存在の意味や価値とかいう考え、そんなものからは遠く離れて、いつでも祝祭に興じるように…誰に言っても夢想だと揶揄されそうなそんな考えを、持ち続けてもいいのだと、FIESTAは伝えてくれているようでした。

 

 

 

 

映画パラサイトへの大衆の関心がピークであった時、様々な感想や考察がツイッター上で巡らされていたのを私自身も体感しています。その最中見かけたポンジュノの対談での発言に、こんなものがありました。

 

(パラサイトが社会派映画であると捉えたがるメディアに関して)

社会派…(笑)というほどでもないですね。私は“映画派”でありたいです。映画そのものが与える面白さや興奮、美しさが、私にとって最優先です。(中略)映画監督は、映画のフィルムより前に、「これがメッセージだ」と旗をなびかせて掲げたい、とは願っていないと思います。映画は豊かなものなので、時にはあいまいに、時には映画そのものを美しい、と観客に受け止めて欲しいと思いますよね。

 

FIESTAが与える体験というのは、まさしく彼が述べていることなのかもしれません。

鑑賞者が、作品に何かメッセージが確実に付随していると期待すること自体は、悪いことではないと思います。それは鑑賞という行為の中で個人が持とうとする基準の一つであろうからです。ただ素晴らしい作品というのは、何か確定した立場でメッセージを持つものではなく、鑑賞後に起こる純粋な喜びに起因して、その作品を様々に解釈したい、という人々の心を沸かせるもののことなのだろうと思います。

私が楽曲を強く心に刻むとき、その観点の主柱にあるのは歌詞の存在ですが、それは、歌詞が良くなければ楽曲の価値に欠けているということには繋がりません。もちろん「音楽」なのですから、聞こえてくるメロディが身体や精神に働きかければそれでいいのだし、他にも衣装がよかったとかビジュアルが神がかっていたとか、MVのクオリティがどうだとか、様々な観点があって然りです。何が言いたいのかというと、「この作品はこうだ」と、決定することなんかはもう誰にもできなくて、あらゆる要素に感応しながらも、その人の底にある何か偉大な感情、形容しがたい感覚だけが頼りであるということ。

FIESTAに散りばめられた様々な要素は私たちを多くの考察に導き、楽しませながらも、それよりももっと圧倒的な美しさ・喜びに呑み込み、惹きつけてくれました。そして私たちそれぞれの記憶に、その人だけの特別な体験として残るのでしょう。

 

 

ただ私は祝福されたい、という気持ち、それが私の体験です。

他の人にはどのように、記憶に残るのでしょうか。

 

 

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